
渋谷、東横線、田園都市線、東急百貨店――。
現在では東京・神奈川を中心に、鉄道、不動産、商業施設など幅広い事業を展開している東急グループ。
その東急グループの礎を築いた人物が、五島慶太(ごとう けいた)です。
「五島慶太って何者?」「東急を作った人なの?」「なぜ鉄道王と呼ばれたの?」と気になった人もいるのではないでしょうか。
実は五島慶太は、長野県青木村出身。
農家に生まれた少年が苦学の末に東京帝国大学へ進み、やがて鉄道・都市開発・教育など幅広い事業を手掛ける実業家となりました。
この記事では、五島慶太は何者なのか、生い立ち・学歴・経歴から東急グループの発展、そして故郷・長野県青木村との関係まで紹介します。
- 五島慶太は何者?プロフィール
- 五島慶太は長野県青木村出身
- 苦学の末に29歳で東京帝国大学を卒業
- 東京帝国大学卒業後は鉄道院へ
- 1922年に現在の東急につながる目黒蒲田電鉄が誕生
- 鉄道を作るだけではなく「街を作る」
- 1934年には東横百貨店を開業
- 1936年に取締役社長へ就任
- 戦時中には「大東急」と呼ばれる巨大鉄道会社へ
- 戦後は東急グループの再建へ
- 多摩田園都市構想を発表
- 東急不動産や東急ストアなどの基礎も形成
- 教育事業にも力を入れた
- 文化施設の整備にも取り組んだ
- 1959年に76歳で死去
- 故郷・青木村には「五島慶太未来創造館」がある
- 2026年には「信州と五島慶太」企画展も開催
- 東急と長野県の関係は現在も続いている
- 五島慶太の経歴を時系列で見ると?
- 五島慶太は長野県から日本の「街」を変えた実業家
- 長野県出身の経営者・著名人
- まとめ|五島慶太は何者?
五島慶太は何者?プロフィール
| 名前 | 五島慶太(ごとう けいた) |
|---|---|
| 旧姓 | 小林 |
| 生年 | 1882年 |
| 出身地 | 長野県青木村(現在の小県郡青木村) |
| 学歴 | 東京帝国大学卒業 |
| 職業 | 実業家 |
| 主な実績 | 東急グループの礎を築く |
| 死去 | 1959年 |
五島慶太は、東急グループの実質的な創業者として知られる実業家です。
鉄道事業だけでなく、沿線の住宅開発、百貨店、文化施設、教育などにも関わりました。
鉄道を単なる移動手段として考えるのではなく、鉄道を敷き、その沿線に人が暮らす「まち」を作るという事業を進めた人物です。
五島慶太は長野県青木村出身
五島慶太は1882年、長野県青木村の農家に生まれました。
現在の青木村役場も五島慶太を「青木村の先人」として紹介しています。
生まれた場所は青木村の殿戸地区。
幼少期の名前は小林慶太でした。
農業と養蚕業を営む家庭に生まれ、決して裕福な環境ではなかったとされています。
しかし慶太少年は非常に向学心が強く、その後の人生を大きく変えていくことになります。
苦学の末に29歳で東京帝国大学を卒業
五島慶太の経歴で注目したいのが、その学歴と努力です。
青木村役場の資料によると、家計は楽ではありませんでしたが、慶太は苦学を続けました。
そして29歳で東京帝国大学を卒業します。
現在の東京大学にあたる東京帝国大学へ、長野県の農村から進んだことになります。
現在のように交通や情報が発達していなかった時代を考えると、非常に大きな挑戦だったことがうかがえます。
東京帝国大学卒業後は鉄道院へ
東京帝国大学を卒業した五島慶太は、鉄道院へ進みます。
ここで鉄道行政に関わった経験が、その後の実業家としての人生につながっていきました。
後に民間の鉄道事業へ転じ、鉄道を中心とした大規模な事業を手掛けていくことになります。
1922年に現在の東急につながる目黒蒲田電鉄が誕生
東急の歴史にとって重要なのが1922年9月2日です。
この日、現在の東急株式会社の前身となる目黒蒲田電鉄株式会社が設立されました。
翌1923年には、目蒲線の目黒~蒲田間が全線開通。
その後も路線を拡大し、現在の東急につながる鉄道網が形成されていきます。
鉄道を作るだけではなく「街を作る」
五島慶太の事業を理解するうえで重要なのが、鉄道と都市開発を一緒に考えたことです。
鉄道だけを走らせても、沿線に人が住んでいなければ利用者は増えません。
そこで沿線に住宅地や商業施設などを整備し、人が住みたくなる街を作る。
そして住民が鉄道を利用する。
「鉄道+沿線開発」という仕組みは、その後の私鉄経営や郊外開発を考えるうえでも重要なモデルとなりました。
1934年には東横百貨店を開業
東急の事業は鉄道だけではありませんでした。
1934年には東横百貨店を開業。
鉄道で人を運び、その駅周辺に商業施設を作ることで街そのものの魅力を高めていきます。
現在では鉄道会社が不動産、ホテル、百貨店、ショッピング施設などを展開することは珍しくありません。
五島慶太は、こうした鉄道を中心とした総合的な街づくりを進めた経営者の一人でした。
1936年に取締役社長へ就任
1936年12月、五島慶太は取締役社長に就任します。
その後、東京横浜電鉄や玉川電気鉄道など鉄道会社の再編・拡大を進めていきました。
五島慶太が「鉄道王」と呼ばれるようになった背景には、こうした積極的な鉄道事業の拡大があります。
戦時中には「大東急」と呼ばれる巨大鉄道会社へ
1942年、東京横浜電鉄、京浜電気鉄道、小田急電鉄が合併し、東京急行電鉄株式会社となりました。
さらに戦時下の交通統合によって、現在の東急だけでなく、小田急・京急・京王などにつながる路線が巨大な企業体のもとに集まりました。
この時期の東京急行電鉄は、一般に「大東急」と呼ばれています。
ただし、この統合には戦時下の国策という特殊な背景があったことも押さえておく必要があります。
戦後は東急グループの再建へ
戦後になると鉄道会社の再編が進み、「大東急」は分離していきます。
五島慶太も一時経営の第一線から離れましたが、その後復帰。
1952年には取締役会長に就任しています。
そして晩年にも、現在の東急グループにつながるさまざまな事業を進めました。
多摩田園都市構想を発表
1953年、五島慶太は城西南地区開発構想を発表しました。
これが後の東急多摩田園都市につながっていきます。
現在の田園都市線沿線には、たまプラーザ、青葉台など大規模な住宅地が形成されています。
鉄道を建設して終わるのではなく、住宅地や生活環境まで含めた都市を作る。
五島慶太が進めてきた「鉄道と街づくり」の考え方を象徴する事業の一つといえるでしょう。
東急不動産や東急ストアなどの基礎も形成
1950年代には、現在の東急グループにつながる企業や施設が次々と誕生しました。
- 1953年 東急不動産設立
- 1955年 五島育英会設立
- 1956年 東横興業(現在の東急ストア)設立
- 1956年 東急文化会館開館
- 1957年 五島プラネタリウム開館
- 1959年 伊東下田電気鉄道(現在の伊豆急行)設立
鉄道だけではなく、不動産、小売、教育、文化などへ事業領域が広がっていったことが分かります。
教育事業にも力を入れた
五島慶太は実業家としてだけではなく、教育にも強い関心を持っていました。
1955年には学校法人五島育英会を設立。
現在も東京都市大学などを擁する学校法人として教育事業を行っています。
五島慶太は、鉄道や都市だけではなく「人を育てること」も社会づくりの一部として考えていました。
文化施設の整備にも取り組んだ
五島慶太は文化事業にも関心を持っていました。
1956年には渋谷に東急文化会館を開業。
プラネタリウムなどを備え、渋谷の文化拠点の一つとなりました。
また、五島慶太が収集した美術品をもとに、1960年には五島美術館が開館しています。
五島慶太自身は1959年に亡くなったため、美術館の開館を見ることはできませんでした。
1959年に76歳で死去
五島慶太は1959年8月14日に亡くなりました。
76歳でした。
しかし、五島慶太が築いた事業はその後も引き継がれ、現在の東急グループへつながっています。
故郷・青木村には「五島慶太未来創造館」がある
五島慶太と長野県とのつながりは、現在も青木村に残っています。
青木村には「五島慶太未来創造館」があります。
ここでは五島慶太の生涯、仕事、事業哲学、人柄などに関する資料が展示されています。
建物の外観は、五島慶太が生まれ育った生家をモチーフにしています。
青木村で生まれた少年が、どのようにして日本を代表する実業家になったのかを学べる施設です。
2026年には「信州と五島慶太」企画展も開催
五島慶太は歴史上の人物ですが、故郷・長野県では現在もその功績が紹介されています。
2026年には長野県150周年記念企画展「信州と五島慶太」が五島慶太未来創造館で開催されています。
さらに青木村では、長野県150周年を記念した「五島慶太」中学生作文コンクールも実施されています。
100年以上前に青木村を出た人物が、現在も「信州の先人」として語り継がれていることが分かります。
東急と長野県の関係は現在も続いている
興味深いことに、五島慶太が生まれた長野県と東急との関係は現在も続いています。
2025年2月には東急株式会社と長野県が包括連携協定を締結しました。
東急は協定締結の背景として、東急グループの実質的創業者である五島慶太の生誕地が長野県青木村である縁を挙げています。
公共交通、観光、県産品の販路拡大、まちづくり、人材育成などの分野で連携を進めています。
五島慶太という一人の信州出身者を起点とした縁が、現在の企業と長野県との関係にもつながっているのです。
五島慶太の経歴を時系列で見ると?
| 年 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1882年 | 長野県青木村の農家に生まれる |
| 1911年頃 | 東京帝国大学を卒業 |
| 大学卒業後 | 鉄道院などで勤務 |
| 1922年 | 現在の東急につながる目黒蒲田電鉄が設立 |
| 1934年 | 東横百貨店開業 |
| 1936年 | 取締役社長に就任 |
| 1942年 | 東京急行電鉄が誕生 |
| 1952年 | 取締役会長に就任 |
| 1953年 | 現在の東急多摩田園都市につながる開発構想を発表 |
| 1955年 | 五島育英会設立 |
| 1956年 | 東急文化会館開業 |
| 1959年 | 76歳で死去 |
五島慶太は長野県から日本の「街」を変えた実業家
五島慶太の人生を振り返ると、単に大きな鉄道会社を作った経営者というだけではないことが分かります。
長野県青木村の農家に生まれ、苦学して東京帝国大学へ進学。
その後、鉄道事業へ進み、鉄道と住宅開発、商業、文化、教育を組み合わせた街づくりを進めました。
現在私たちが当たり前のように利用している「駅を中心に住宅・商業施設などが広がる私鉄沿線の街」を考えるうえでも、五島慶太は重要な人物です。
信州の小さな村から出て、日本の鉄道と都市の発展に大きな足跡を残した人物といえるでしょう。
長野県出身の経営者・著名人
長野県からは五島慶太以外にも、全国規模の企業を築いた経営者や、さまざまな分野で活躍した人物が誕生しています。
長野県ゆかりの経営者についてはこちらで紹介しています。
芸能・音楽・文化などを含めた信州ゆかりの人物はこちら。
まとめ|五島慶太は何者?
今回は、五島慶太は何者なのか、長野県青木村で生まれてから東急グループの礎を築くまでの経歴を紹介しました。
五島慶太は1882年、長野県青木村の農家に生まれた実業家です。
苦学の末に29歳で東京帝国大学を卒業し、鉄道院などを経て鉄道事業へ進みました。
その後、現在の東急につながる鉄道事業を発展させ、沿線の住宅開発、百貨店、文化、教育などへ活動を広げていきます。
1953年には後の東急多摩田園都市につながる大規模な開発構想を発表しました。
長野県青木村の農家の少年から、日本を代表する「鉄道王」へ。
五島慶太は、鉄道を走らせるだけでなく、その沿線に人が暮らす街を作るという考え方を実践した実業家でした。
「あの人何者?」では、今後も五島慶太をはじめ、長野県信州から全国へ大きな足跡を残した人物の経歴・プロフィールを紹介していきます。


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